創立70周年を迎えて
2018年8月放送
福島県農協会館診療所
事務長 鈴木 伸英
 みなさまおはようございます。私は福島県農協会館診療所事務長の鈴木と申します。
 当会、福島県厚生農業協同組合連合会は今月の8月14日をもちまして、農家の皆様と歩み続けて、創立70周年を迎える事が出来ました。
 この番組を当会が担当させていただく際には、主に健康アドバイスをお伝えさせていただいたのですが、今回は、創立70周年を迎えたことに伴いまして、当会が設立に至った経緯や70年前の医療の状況を過去の資料などを基にお話をさせていただこうかと思います。
 時代をさかのぼらせていただきまして、明治から昭和初期における福島県の農村での医療環境は、病気で命を失うという恐怖と隣り合わせであり、医療機関に受診したくとも医療機関が少なく診療を受ける事自体が出来ない状況であったようです。また、医療機関に受診できても、医療費の負担は大きく、一家の働き手が病に倒れれば、その家は、娘の出稼ぎや田んぼの青田売り、あるいは田畑を売却して医療費や生活費を捻出するしかなく、病気にかかった事をきっかけに生活の悪循環が止まらなくなるといった状況だったようです。
 この頃の農村では、富山の置き薬や薬草を煎じて飲む、神仏への祈祷が、治療の大きな比重を占めていました。特に山間へき地においては、死亡診断書を書いてもらう時だけ医師に受診するという事も珍しくなく、農村の医療環境は恵まれない悲惨な状態が長い間続いていたようです。
 昭和11年5月末現在の資料によりますと、本県は診療出張所等の医療施設すらない「無医村」の割合は37%もありました。東北全体での割合が26%で、東北の中でも最も「無医村」の割合が多かったようです。
 東北地方では、昭和4~5年に東北地方を襲った冷害により農業恐慌に陥り、農家の生活や医療環境が悪化しておりました。昭和7年には救農国会が召集され、産業組合では産組5か年計画の中で農村経済更生運動が積極的に展開されるようになりました。
 医療については、昭和3年青森東青(とうせい)病院(現青森県市民病院)に次いで、次々と医療利用組合が設立されるようになりました。この運動に呼応して本県でも昭和8年に、岩瀬・安積・石川・田村の4郡92カ村にわたる県南利用組合病院計画が、県に出され申請されましたが、全国的な反産業組合運動などの影響等により却下されてしまいました。さらに、昭和10年にも滑津村(現中島村)の有志より西白河郡区域を中心とした組合病院設立の計画が県に提出され、国を巻き込んで内務大臣や農林大臣から「県は理由なく却下してはいけない、仮に、そういった事態が起こった際には行政訴訟で争え」との見解が出されましたが、勝訴しても監督官庁が県であり運営に支障が出ることから自ら申請を取りやめる事となったようです。結局、昭和11年になっても福島県には産業組合医療施設は設立されることはありませんでした。しかし、これらの農村医療救済に尽力された先駆者たちの努力により次第に産業医療運動は盛り上がってくるようになってきました。
 既に産業組合の福島支会は厚生部門を設け保健指導などを行っておりました。昭和16年に保健主事を設置し、積極的に農村保健指導を行い、また、県信購販利用連合会は保健材料の配給などを行い支会と連合会一体となった農村保険運動が展開されました。また、産業組合支会は『栄養の常識』や『共同炊事読本』などの出版物を発行したりして、それらの取組みは、好評を得るようになってきておりました。
 一方、県においても昭和15年に社会事業協会を主体として、産婆や看護師を保健師として養成し、巡回指導による衛生思想の普及などを行うようになっておりました。
 昭和16年12月に突如大東亜戦争が勃発し、本格的な戦時統制体制へと移行しました。昭和18年に入り大東亜戦争は激しさを加え、動員召集により農村から労働力が戦場に流出して環境は極端に苦しさを増し、さらに加えて栄養状態の悪化などによる健康の低下が目立ってきておりました。ここにおいて政府は皇国農村確立のため標準農村を設立する必要があるとして、標準農村確立運動を展開しました。
 それを受けて、本県産業組織連合会は標準農村設立に関する方針を実行するため医療施設の設置などを積極的に推進することを決めました。その過程で、前述の不許可になった病院建築計画が見直され、中央機関との連携による産業病院建設機運が次第に高まり、医局体制の整備も東北帝国大学医学部の協力が見通せるようなった事から、白河町に病院を建築する事を決定されました。その後、昭和18年7月1日に白河厚生病院の開設許可が下りて、8月28日に建築工事に取り掛かりました。建設工事は「関病院」を買収して増改築することで進められておりましたが、ガダルカナルの撤退をはじめとする敗戦の様相が深まった時期と重なり、建築資材が入手困難を極め、計画通りに進まなくなり、産業組合の後身である農業会の手によって昭和19年10月1日に竣工し、本県初めての組合病院「福島県農業会白河厚生病院」が開院する運びとなりました。
 当時の農業会は協同組合の「組合員の為の運動」の理念とは異なり、終戦までは「国の為の機関」として存在し、農村においては食糧の増産という指名を負わされていたほか、軍事要員供給の場となってしまった農村の保持を目的としておりました。
 医療においても、農業労働力の維持推進と人口増加、「健康な国民や兵隊の育成」を目的とする健民健兵政策がすすめられました。戦争が熾烈化するに従い空襲によって都市はもちろん農村の医療施設までもが爆撃のために破壊されるという事態が起こり、さらに医師の応召徴用により、日本の医療は重大な局面を迎え、農村医療は危機に直面するなか終戦を迎える事となりました。
 終戦後の農業会はこうした様相が一変し、それまでの戦争経済は崩壊し、GHQの占領下の中、新しい体制に基づく事業を行い、農村における生活の改善と文化の向上が主なる目的となりました。
 医療においては病院経営を中心として、戦時体制下の栄養水準低下、医薬品の不足、海外からの引上げで新たに持ち込まれた病原菌による伝染病の流行など危機的な衛生状態に陥った中で、公衆衛生の周知を中心とした、農民の健全な労働力を回復と共に、農村の復興に重点が置かれました。
 そんな中、白河厚生病院の改築工事を進めていたころ東白川郡常豊村(現塙町)においても、地元の方々の要請により、白河厚生病院の分院を誘致しようという動きが起こっておりました。しかし、医局の編成や医療技術員の確保も容易でない情勢であることから、すぐに設置する事は難しいと判断され、とりあえず診療所を開設する運びとなり、昭和21年2月に診療を開始しました。その後、病院建築は資材不足の中、難しいとされましたが、地元の資産家による土地や建築材料のなどの多大な寄付と地域の住民の方々や自治体の協力により、同年12月には分院として、昭和23年4月には本県で2番目の農業会の病院として「塙厚生病院」が開院する運びとなりました。
 また、大沼郡高田町(現会津美里町)を中心とする地域には公的な医療機関が無く救急又は重症患者は遠く若松市まで行かなくてはならず、そのような医療環境から貴い命が失われることが多く、医療機関の必要性が訴えられるようになっておりました。昭和21年10月に病院誘致のための同盟会が結成され、県農業会に対して強い要望が出され、その後建築に着工の運びとなりました。建築工事は高田町の「旧大沼農業学校」の校舎を買収し、増改築する事が決定されましたが、やはり、戦後の資材不足等により工事は難航し、地域の住民の方々の協力を得て昭和23年5月に竣工され本県農業会の3番目の病院として「高田厚生病院」が誕生いたしました。
 農業会発足当時、全国で農業会が経営する病院は107あり、本県では白河厚生病院が産声を上げようとしておりました。その後農業会解散まで他の経営体からの移管も含めて農業会が経営する病院は74病院増えました。本県においては白河に続き塙・高田が増加しておりました。戦争が激化する中、そして戦後の混乱の中、福島県農業会の医療事業は、資材や人員不足の中で地域の方々の協力を得て開院する事が出来るようになりました。
 一方、この間、GHQによる戦時体制の農民解放指令が出され、昭和22年12月15日に農協法公布と共に「農業協同組合法の制定に伴う農業団体整理に関する法律」が公布され、農業会は8ヶ月以内解散する事とされました。そして、農業会解散後の組織の構成について話し合われ、議論の末、最終的に県下一円医療事業を行う機関とする事が決定され、昭和23年8月14日に福島県厚生農業協同組合連合会として設立登記が完了する運びとなりました。
 創立以後も県域の医療事業を行う為、坂下厚生病院、鹿島厚生病院、双葉厚生病院等を開院いたしましたが、それら開院についても難渋し、地域住民の方々や自治体のご協力を得ながら開院する事が出来ました。その後も、そういった協力をいただきながら本年70周年を迎える事が出来ました。
 これからも農家の皆様や地域の皆様と共に豊かな地域づくりのための一助を担っていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。



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